韓国 百済、新羅 古都散策

巷のツアーでの駆け足旅行であるが、百済、新羅、古朝鮮の古都を訪ねた。
日本書紀等の日本建国の歴史書の前半は、加耶、百済の滅亡史でもある。


思い切った切り口で日本書紀、古事記を読み下し、日本人のルーツ、邪馬台国、任那等も解明、新しい「加耶古代史観」で古代を解く。 謎の3、4世紀を暴く。 加耶の歴史を復活 updated 2001/12/18


加耶古代史観
   思い切った切り口「加耶古代史観」で読む。 
日本人のルーツを訪ねて  
            倭国、任那とは? 加耶? 邪馬台国? 
            邪馬台国卑弥呼は加耶から移住!! 大和説と九州説 合体
            天皇陵の真の被葬者は                

(1)百済の古都
 

ペクチェの歴史

テジョン大田のユーソンホテルを出発 プヨへ向う。しばらくすると、朝の放射霧の中、田園風景の中を走る。

プヨ 郊外  露のついたバスの窓を手でふいて、車窓の田んぼを見る。

大きな川の橋を渡り、左折。右折するとコンジュ公州方面。

歴史は、4世紀後半から、7世紀後半を考える。

「ペクチェ」はハンガン流域のハンソン(漢城)に都を置き、4世紀後半、
クンサゴワン(近肖古王)の時、南海岸から、北は高句麗の故国原王を討つまで領土を広げた。思えば、この頃が領土も最大だったかもしれない。

  475年 高句麗の長寿王(チャンスワン)の攻撃を受け、ハンソンは陥落。百済(ケロワン)蓋ろ王殺される。文周王、ウンジン(熊津 今の公州)へ遷都、内部抗争で短期に王が交代。

  武寧王(ムニョワン)時代(501--522)で安定期を迎える。
523年 聖王(ソンワン)の時、首都をサビ(現在のプヨ)へ移転、国号を「ナムプヨ」と変えている。
  ソンワンは高句麗に奪われた漢江上流を「新羅」とともに取り戻す。しかし、新羅の背信で、戦死(554)

その後も、新羅からの攻撃を受け、新羅ムンムワン(文武王)の時、660年、唐の蘇定方、新羅のキムユシンに率いられた唐・新羅連合軍に攻撃され、プヨでウィジワン(義慈王)で最後の王朝となる。

倭国との歴史は、日本書紀を参考してみていこうと思う。ただいま執筆中
 
地図
 飛鳥寺、四天王寺と定林寺
 
まず、チョンリムサ(定林寺)跡を訪ねる。


仏教伝来

 定林寺は当時、日本でいう、中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍であったことが
確認されている。四天王寺は、推古元年(593年)に難波の上町台地に、聖徳太子によって建立された。
蘇我と物部の崇仏抗争に勝利した証でもあるが、そこは難波津に望むところであり、海上からも
大伽藍を望めたであろう。 最も、四天王寺式というのは逆かもしれない。高麗の影響もあろうが、当時の百済での伽藍形式で建立したのだから「百済式伽藍」なのかも。四天王寺の他にも、我が国では河内南部の河内飛鳥にもヲガンジ「鳥含寺」、西琳寺、道明寺(土師寺)等に、「四天王寺式伽藍」があったことが推察されている。

 半島では、プヨの西北西約30kmの「鳥含寺跡」(「古代を考える河内飛鳥」より)、プヨの南方2kmの
軍首里廃寺(「韓国の古都を行く」より)などに、伽藍が南北一直線に並ぶ四天王寺式が確認されている。

一方、飛鳥寺は推古4年(596年)、蘇我馬子が発願して創建されている。

「韓国の古都を行く」によると、飛鳥寺は、塔を中心に、東西と北側に三つの金堂を配置する一塔三金堂式の形式で、これは平壌郊外の清岩里廃寺(高句麗)と一致すると書かれて有る。つまり、飛鳥寺は高句麗、百済が融合しているのだ。飛鳥寺の僧侶も百済、高句麗の両方から来ている。
 

定林寺
ペクチュの頃の遺跡は殆どなく、それは「心で感じる」ものらしい。

 周りは瓦を束ねた土塀がずっと囲む。7世紀当時からあるのは一つの五層石塔のみ。しかし、
石塔には新羅・唐連合軍がペクチェを平定したことを刻んでおり(大唐平百済碑銘)、
クダラにとっては怨念の石塔だ。


 石塔の前方には珍しく池が掘られている。左手には見上げるような大木が何本か聳えている。
霧の中に残るのはあと本堂のみ。正面に本堂あり、中に石仏が安置されている。

定林寺帽子をかぶっているように見えるが、「苛め」の一種か、蒙古人が付けたらしい。

地面からは水蒸気が立ち込めて、朝の霧が次第にほぐれてきて、温かさも増してきた。

 

(2)落花岩 ナクカアム

プソサン(扶蘇山)

プソサン(扶蘇山)を訪ねる。ここはペクチュ王朝最後の城砦と宮殿があった所。百済660年滅亡。
全体が山城になっている。そこを登り、落花岩へ降りるのがコースだ。ここまで来ると、
すっかり晴れ上がっていた。途中、なだらかな松林の中の散策で扶蘇山

高い桜の木もちらほら見えるが、まだ蕾である。カササギ、シジュウカラに似た鳴き声も聞こえる。
朝霧は消えて、青空になっている。途中、三将軍の廟があり、一番右が「ケペク将軍」の絵だ、家族をを棄てて、
百済の為に戦ったと言う。

落花岩
 
落花岩の方へ降りていくと、真下に「ペンマガン」が見え隠れする。松林の中では、時たま紫のツツジ
が細く見えたりする。ペンマガン-白馬江-(錦江 クムガン)はプソサンの所で大きく蛇行している。
落花岩はクダラ王朝最後の時、3000余りの官女が落ちる花のごとく天馬江へ身を投じた所だ。
落花岩
川の流れは緩やかで、波風ひとつない。

落花岩の所には、彼女たちを供養する゜お寺がある。其処から遊覧船にのり、落花岩を水面から眺める。

倭国の百済救援
日本書紀にはなんと書いているのだろう。

落花岩
662年、百済救援の「倭」の水軍が来た「白村江」は、この錦江の河口である。

白村江の戦い
 
 

 しばらくして、船をおり、昼食となる。周りは日本の田舎と同じようなところ。連翹と白木蓮が満開である。
日本の普通の家と見違うような所で、昼食となる。ただ、違うのはふと見上げると中腹にある韓国式のお墓である。
 
 

 

新羅の古都

(1)佛国寺

昼食後は、東海岸にあるキョンジュへ向ってひた走る。韓半島の横断だ。韓半島の真ん中あたりでは
白い雪の残っている山並みを見る。小白山脈である。テグの町を通り過ぎるとキョンジュは近い。

キョンジユはシルラ、統一新羅の都として、935年まで栄えた古都である。
キョンジユに入ると慶州、沿道の桜は満開で気候も暖かくなっていた。

仏国寺  ブルククサ

仏国寺 山門
 

 創建は新羅の法興王代ポプンワンの535年といわれる。大規模になったのは8世紀半ば
の統一新羅の時代。 新羅で仏教が公認されたのは法興王の527年である。

 三韓の中でも新羅は半島の東南の辺境で、最も遅く成立した。4世紀のナムルワンの時代洛東江流域まで領土を確保。ついで、ヌルジワン(417--458)の時、高句麗に対抗するため百済と同盟。6世紀末頃には、漢江付近から、洛東江流域も確保、東北は威興平野まで確保した。
 
 その後、654年武烈王(ムーヨルワン)即位、660年 8月、唐新羅連合軍により百済を滅ぼす。661年文武王(ムンムワン)即位、662年白村江で百済救援の「倭」を撃破。さらに唐と連合して668年、 高句麗を滅ぼす。676年、新羅と唐の抗争は終わり、文武王(ムンムワン)の時、半島を統一した。

新羅と倭国の関係
  日本書記を見ると、百済と新羅は仲が悪い。百済は新羅に滅ぼされ、百済から倭へ
  多数、亡命、難民化したことを思えば当然か。新羅の話しが出てくるのは以外と古い。
  垂仁2年の春、新羅の王子、天日槍が倭に来ると言う話がある。
倭国の歴史を参照下さい。
  
   仏国寺 連ギョウ

途中桜並木が延々とつづく。奈良みたいなとろだ。学生さんの旅行が多い。クダラとは大違いで
、賑やかである。

屋根の格好が違う。
日本より曲線的で、最後に跳ね上がるような感じがする。

仏国寺はユネスコ世界遺産に指定されている。
ここも白木蓮、桜が満開。寺の柱には複雑な色をした模様を書いてある。

 キョンジュでは、やはり温泉がある。ホテルに大浴場はなかったが
、直ぐ近くに温泉あり、大浴場で垢を流す。

夕食は、湖畔荘で、観劇しながら食事。ガイドさんに教えられた「アリラン」を口ずさむ。

アーリラン アーリラン アラーリーヨ、 
アーリラン コゲル ノモカンダ
ナールイ ポリオ カーシム ニームン
シンニォド モッカソ タイピョンナンダ

畔には、満開の桜と、黄色の連翹が色を添える。

 

 

(2)天馬塚

 

 あくる朝、さすが、ひんやりする。古墳公園を見る。やはり、修学旅行の学生さんが多い。
天馬塚チョンマチョンを見る。天馬塚
時代的に見れば、5世紀頃だと言われるが、その頃の「倭国」では前方後円墳が最大になった頃だ。
 新羅時代の円墳である。だれの墓かは不明であるらしいが、出土品のひとつ、馬具の障泥(あおり)の
白樺樹皮に描かれた疾走する天馬図から天馬 あおり
「天馬塚」と名づけられた。
    北方の騎馬民族なのか。
    日本の大仙古墳(仁徳)も、開けて見れば、同じような物が見つかるかもしれぬ。

 円墳はきれいな姿に仕上げられ、上の植生は、芝生みたいなものだけで、何故か樹木は生えて
いない。内部に入ると、正面に木棺の収められていた様子が再現されており、壁の方には
出土品が陳列されている。

出て、周りを見渡すと、古墳だらけである。 私のスケッチ

慶州 古墳
 
 円墳が小高い山を背景として、田圃の中のあちこちに散らばる。満開の桜を見ると、
日本のことを思い出すが、やや、そりあがった屋根瓦は、こちらのもんだ。
 
 

弥勒菩薩半跏像
  博物館を見学。時間が限られているので、肝心の弥勒菩薩半跏像を見逃す。これは鋳造品であるが
日本の京都広隆寺木造像と酷使

弥勒菩薩

ソウルへ向かう

テシ゜ョンからセマウル号でソウルへ向う。車窓はそう変化はしない。日本でいえば、
東北の田舎を走っているようなもの。ただ、風情は大分違う。駅の傍には十字架を天高く、
教会が見えるのが、まず日本とちと違う。
 

また、山は殆ど松林だ。たまに雑木林があるが、緑の所は殆ど松林だ。小高い山という程
でない山が続く。岩が露出している所もあり、岩山が多い。下草は少なく、植生は寂しそうだ。
殺風景な田園風景に色を添えるのは、ガソリンスタンドの色だ。色と言えば、連翹の黄色と、
たまにみる木蓮だけで、日本の山と比べても植物などの色彩が少ない。
続く