日本の「可也山」は?
この写真は九州福岡県前原市
古代「伊都国」から可也山を遠望する。赤い彼岸花の咲く向こう側、加也山は半島の「加耶山」に通じる。 だが、ここは「伊都」で、任那系の居住地
先住民を追い出して、加羅系が占拠した証か?
地名で言うと、「加悦」と書いて「かや」と読む場所がある。丹後半島の近くである。 何故に筑紫から丹後、敦賀に飛ぶのだろうか?
丹後は4世紀後半から6世紀中葉にかけて、「丹後王国」があったと、言われる。なかでも、京都府 加悦町は丹後を代表する古墳の宝庫であり、中でも、4世紀後半から5世紀初頭にかけて巨大古墳が築かれた。 4世紀後半とは洛東江上流に「加羅」が進出し、日本書紀の言う加羅七国平定の時期である。
この「加悦」は任那系か加羅系? 結論的には加羅系。
・丹後町 神明山古墳(全長190mの前方後円墳)−丹後町古代の里資料館
・網野町 銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)−日本海沿岸部で最大
・加悦町 蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)−加悦町古墳公園
蛭子山古墳は4世紀後半頃 ヤマト南部、東部あたりに前方後円墳ができる頃と同じ時期!!
作山古墳は5基の中形古墳で構成され、4世紀後半から5世紀初
樹齢1200年を越す日本最古のクロツバキ
弥生時代終期末(三世紀前半ごろ)の大型の長方形墳墓
京都府加悦町明石の「入谷(にゅうだに)西A−20号墳
銅鏡「方格規矩四神鏡」−3世紀前半−が、弥栄町と峰山町との境界、大田南5号墳から出土
一番古い製鉄所跡(弥栄町の遠所遺跡)−5世紀後半〜6世紀後半と8世紀後半
古代での最先端基地の様子を呈している。
ところで、、この「カヤ」は、物部に繋がる「加羅」系
任那人 「ソナカシチ」が国へ帰りたいと言い、、先皇の世に来て、まだ還っていないのか?
国に帰えるに、厚くもてなす。 赤絹一百匹を持たせて、任那の王に賜す。しかし、途中、新羅人が道を遮断、奪ってしまう」 この二つの国の恨みはここに始まる。 これは任那系のお話。
ソナカシチは崇神65年(3世紀始め)、ヤマトへ来る。これは任那系。任那が始めて日本書紀に出てくる時期である。 「任那は筑紫を去ること2余千里、北海をへだてて、鶏林の西南にあり。」
この表現では任那は「駕洛国」 に当たる?? 高霊かもしれない。
崇神 任那系---仁徳
垂仁 加羅系--物部系
また、新羅との関連を考えると
但馬 −−新羅系
丹後ーーー加羅系
とすれば、丹後は古くから絹で有名、但馬は丹後の直ぐ西にある。丹後から半島へ帰るには、但馬の海岸部を通ったに違いない。 この頃の加羅は敦賀経由
ただ、注釈として、別の話が挿入されている。 ツヌガアラシトの物語である。(これは加羅系 の話)
(1)
あるに曰として
時期は 3世紀 1/2 頃
御間城天皇(崇神天皇 時代、額に角ある人が、一つの船で、越国の筒飯浦(ケヒノウラ)」に泊まる
誰かと訪ねれば、
「意富加羅国(オホカラノクニ)の「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)またの名は干斯岐阿利智干岐(ウキシアリシカンキ」。
ヤマトに聖皇あると聞いて、帰化を望む。 穴門へ到るとき、その国に「伊都都比古」あり、語りていわく、「私はここの王である。二人の王はいない。」といわれた。 穴門から瀬戸内へ入れず、それで国は還ろうとしたが、道が判らず、島伝いに、出雲を経て、ここへ。 そのとき、天皇の崩御に遭う。 それで留まり、活目天皇(垂仁天皇)に仕えて3年、国へ変帰ることに。
そこで、国の名前を改めて、御間城天皇(崇神天皇)の名をとって「弥摩那国」とするという国名の由来の話。あとはソナカシチの話と同じく、新羅に赤絹を奪われて、二つの国、あい恨むの始まり。
注目
(1)
意富加羅国(オホカラノクニ) 大加羅だから 「加羅系(高霊)」 である。「伊都」に王が居て、とあり、これが「任那系」先住民。 追い返されるが、出雲、敦賀と展開。 加羅系の東方移住の伝説である。 ソナカシチのように任那人と書いていないのが味噌。
(2)
三国遺事 巻一 五伽耶の一つに大伽耶(今高霊)
巻二 駕洛国 国称大駕洛、また称す伽耶国、即六伽耶の一つ
外部リンク先 三国遺事
もう一つの逸話は、ツヌガアラシトがまだ国に居たときから始まる。
黄色い牛(あめ色の牛)に農具をのせて田舎に行く。黄色い牛は突然、たちまち消えてしまう。 その後を追って、とある民家へ。 その老父が言うには、「貴方の求める牛は、この村の中に入っていったよ」
しかし、村の役人が言うには、「牛が運んでいた農具から推し量れば、必ず殺して食べる。 もし、持ち主が求めるならば、物をもって償おう」と言って、牛を食べてしまった。
もし、「牛の値として何物を得たいと思うか?」と問われたら、財物を望んではいけない。「村の祭る神を得たい」と言いなさいと。
しばらくして、村の役人がきて、「牛の値として何物を得たいと思うか?」とアラシトへ問う。 彼は教えられたままに「村の祭る神を得たい」と答える。その祭る神は「白い石」であった。 すなわち、村人はその白い石をもって牛の値に当てたという。(新羅のお話では赤い玉)
アラシトは、持って帰り、納屋においていたが、その神石は、美麗な童女となる。ここにアラシト喜んで、まぐあいとせんとすると、童女はたちまち消えうせてしまった。
いったい何処へ? 訪ねれば、「東の方に向かった」とか、アラシトは、その後を追っていく。ついに、遠く、海に浮かんで、ヤマトへ。 求めていた童女は難波にいて、比売語曾社の神と成る。又は、豊国の国前の比売語曾社の神となった。並びに二箇所に祭られた。
国東にも
難波 ----先住加耶の地 加羅、新羅とも瀬戸内経由で難波へいけず
、韓国で多く見られる牛で、褐色の毛をしている。
韓国では、黄色い花 レンギョウ 国花
古代中国はもちろん韓国でも昔から王の服は黄色
「黄土」と書き、韓国の肥えた土壌の土を意味
姫島は、古事記によると、伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神が「国生み」にさいし、大八島国の生成のおり、淡道の穂の狭別島を始めとして国生みの話。 最後の方であるが、大島を生み、次に女島を生んだとある。 姫島は、古代、露天の黒曜石で有名。
国前 比売語曾社(ひめごそのやしろ) 豊前国前郡 (大分県東国東郡姫島村)
難波 比売語曾社 大阪市東成区東小橋北之町
国東半島北方海上に 「姫島」
この二つは、物部「加羅」系の移住路に当たる。 難波―大加羅の海上交通路の上に姫島が位置する。
一つは 筒飯浦(ケヒノウラ −−福井県敦賀市だが、同じ「気比(ケヒ)」の松原は淡路にもある。
淡路では慶野松原と書く。いずれも古代の臭いが!!
筒飯とは?
「竹筒飯」との連想。 竹筒の米を入れて火の中に入れてご飯を作る。 これは中国というより、南方マレーシアの方が得意な分野である。 中国でも、海南島海南黎族傳統美食、台湾
狗邪系として、二つの移住路 いずれも白砂青松で残されたところ。
仮説 ツヌガアラシトは「大加羅」すなわち、「高霊」の「加羅」である。淡路の慶野松原、敦賀の気比の松原とも、同じ、加羅系、「物部」の移住路になる。
考え方
狗邪系 淡路 慶野松原![]()
加羅系 敦賀 気比の松原 --気比神宮
参考まで、
神代記 イザナミの死 イザナミは鳴門渦潮に消える 狗邪系の移住伝説
物部は邪馬台国に繋がる 「ニギハヤヒ」の天孫降臨の地、物部連の渡来
淳仁天皇 の末路
気比神宮?
古事記に気比の大神と酒楽の歌と、仲哀の最後に出て来る。
神功記の最後、建内宿禰が、応神とともに漱ぎに行くところがここ。
神宮 −−物部連(加羅)
大社ーーー任那系
建内宿禰 太子を率いて、禊でんとして、淡海(あふみ)また若狭国を経て、高志の前の角鹿へ。
そこに座す、「イザサワケノ大神命」が夜の夢に出てきて、「私の名前を、御子の名前と換えたい」という。あくる日、浜に出れば、鼻やぶれた海豚が浜にある。御子、神に申して、「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」と。 また御名をたたえて、御食津(みけつ)大神と名づける。
わざわざ、こんな遠方まで何故に行くか? それは彼らの進出路?
応神系 は敦賀から 4世紀後半 敦賀からは琵琶湖も近く、内陸へ進展できる。
つまり、瀬戸内は「任那系」だから、あとからの移住集団 「物部」は、若狭から近江、河内へ。
こう考えると、加羅系には
「君」 狗邪系 四国経由 紀ノ川経由 「慶」 「紀」
「連」 加羅系 敦賀経由 「気比」
の2種類。いずれも「キ」がポイント。
敦賀を何故、ツルガと読むか? 敦煌の「敦」と同じ字、つまり、遠く離れた賀なのだ。 「賀」は「駕洛」の「賀」でもある。
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