滋賀県伊香郡高月町渡岸寺 last updated 1999 07 20
国宝
十一面観音立像 腰を中心に強くひねった躍動感
本面の両脇に各一面配置し、さらに、頭上面が大きく、インド的なもの (平安初期?
木造 像高 177.3cm---檜の一木造)
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国宝十一面観音立像の他に、
重文---大日如来座像 --檜の寄せ木造り、藤原時代
県文 --阿弥陀如来座像 藤原時代
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国宝および重要文化財に指定されている十一面観音像は全国で二百一体あり、県別に見ると滋賀県が41体と最も多く、たいへん 興味深い。長浜、高月、木之本にかけても、古くからの湖北十一面観音像 が分布している。
北陸自動車道の木之本ICを降りて、国道8号線を南下してもよいし、長浜ICで降りて、国道8号線を北上するもよし。電車では大阪から長浜まで 新快速が通るようになり、アクセスも便利になった。 ただ、新快速は長浜までなので、長浜から高月、木之本へは各駅停車に乗り換えなければならない。時たま、昔懐かしい蒸気機関車が湖北の田園の中を駆け抜ける時もある。
(湖北の地理)
木之本は湖北の平野のどん詰まりであり、すぐ傍には古戦場で有名な「賤が岳」(しずがだけ)(421m)が聳えている。国道8号線は、木ノ本で西に90度向きを変え、賤が岳のすそ野を巻くようにしてトンネルを通り、琵琶湖最北の静かな湖畔沿いを走って塩津へ出る。
木之本には「余呉(よご)川」、「高時川」が流れている。余呉川は、椿坂峠付近を源流とし、北国街道沿いに南下して、木ノ本の西の田舎を通過して、山本山付近で静かな琵琶湖に注いでいる。また「高時川」は、越前との境「栃の木峠」付近を源流として、丹生の集落等を通り、木ノ本の東、川合辺りで杉野川と合流し、更に湖北町、虎姫町と流れ、びわ町で姉川と合流して琵琶湖に注いでいる。
高時川と杉野川との合流地点付近、東方に己高山(こだかみやま)(923m)が聳える。
己高山は往時、鶏足寺を始めとした壮大な寺院群が並び、湖北地方の仏教文化の中心地であったという。鶏足寺は天平の頃、泰澄と行基が十一面観音を祭り、寺を創建したのが始まりで、その後、最澄が天台宗の寺として「鶏足寺」を再興し、湖北地方の仏教文化の中心地として栄えたと言われている。今も、己高山の西の麓には往時を偲ぶ十一面観音像がある。
木ノ本の旧家沿いの街道を南に行き、昔懐かしい田圃の中を散策していくと、高月もまじか。己高山からの山稜は次第に降下して、山田山、更に「小谷城跡」のある小谷山(495m)となる。高時川が国道8号線と交差する手前辺りが高月である。
「姉川の合戦」で有名な姉川は奥伊吹を源流として最初は南下するが、伊吹山の所で急に西に向きを変え、虎姫で草野川(己高山の東部を源流とする川)と合流し、湖北の平野を、ほぼ東から西へと流れている。
長浜は、「秀吉」が初めて一国一城の主となった所だ。長浜城の高殿に登って見るに、長浜辺りは広々として琵琶湖の水運の地で、向こうの伊吹山(1377m)も雄大だ。
白山開創の祖と知られる「泰澄」は天武11年(682年)越前で生まれ。泰澄の事跡は北陸から東北にかけての寺院開基や開湯伝説に多く残っており、天平9年、大流行の疱瘡を十一面観音の法にてとどめ、大和尚位を授与され、泰澄和尚と号されるようになったと言う。また、泰澄伝説の残る山々は海上からの目印となる共通した特色を持っているが、白山の本地仏は十一面観音菩薩だという。泰澄伝説は日本海漁民によって伝播したとも言う。
伝説ではあるが、「泰澄」と「十一面観音菩薩」とが結びついた。
この本を読んで、もう一つ気がついたことは「渤海使」のことである。渤海国とは中国の東北地方東部、沿海州にあった国だ。727年から927年までの202年間に35回、使節が来朝している。遣唐使が630年から894年までの264年間に計19回と比較しても、たいした物だ。この流れは渤海から日本であるが、渤海使は日本海を直航したので、能登、加賀、越前の海岸に漂着した。漂着地から都へ行くには、必ず湖北を通るはずだ。
現在、十一面観音像は観音堂左脇の収蔵庫に陳列されている。
本堂から廊下を渡り、重い扉を開けて、コンクリート造りの収蔵庫へ入る。
中は薄暗く、敬虔な雰囲気で拝む。テープの説明が流れているが、土地の古老からの説明もある。せまいながら、至近距離で真正面からだけでなく、横からも、後ろからも拝めるのは嬉しい。
善悪雑穢の者を見て、悪を改め、仏道に導くという「大笑面」をゆっくり拝めるのも数少ないものと思う。
湖北の風情を残す町に、 これほど立派な檜の一木造りの観音像が存在することに感嘆する。 仏像彫刻としても至上の観音像である。
和辻哲郎「古寺巡礼」の言うように、「天平末期から弘仁初期への変遷は、漸を追うたもので、どこにも境界がない。」 と思う。
いつも心によぎるのは、あの大きな脇面-すなわちインド的な形式を見て、この彫刻の作者は誰で、何時頃の作であろうかという思いである。というのも、中国で漢化されて日本へ伝来した十一面観音像は、脇面形式を取らず、また頭上面も宝冠のごとくして目立なくしているからだ。例えば、国宝十一面観音像六体のうち渡岸寺以外の十一面観音像はすべて、その頭上面は小さい。つまり、この渡岸寺十一面観音像は、漢化を受けていないのである。
和辻哲郎「古寺巡礼」によれば、唐招提寺金堂の建築家は胡国人如宝で、仏頭の作者はインドと関係が深い崑崙国人軍法刀、さらに金堂本尊の制作は思託、曇静で共に唐僧と言われており、鑑真と共に渡航したメンバーである。また、法華寺にからんで、その十一面観音制作にまつわる伝説も紹介されているが、それによれはこの像の作者は天竺国文答師とか。
また、東大寺の開眼供養時の開眼師は、天平19年(747年)南天竺から渡来した婆羅
門僧 菩提である。
このインド的な十一面観音の作者は、やはり天竺から渡ってきたのだろうか---渡岸寺十一面観音のルーツを探索することにしよう。
高月十一面観音像の特徴
cf.「仏像 -種類とかたち- 観音さまとは」 高月町立観音の里歴史民族資料館
リンク先 高月町立観音の里歴史民族資料館
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